五年級の修学旅行

明治時代の尋常中学校にも「修学旅行」という行事があったことを
この雑誌を読んで初めて知った。以下は修学旅行の概要の記事である。
宍道湖から中海に出て米子に行き、そこから徒歩で山路をあるき中国山地分水嶺を越えて舟で川を下って岡山へ。そこから瀬戸内海を渡り金比羅山まいり、広島の呉軍港、江田島厳島。帰りは広島の三次(みよし)から山道を越えて松江へ帰還したとある。
基本的には現在の国道のルートだが、片道山越えに3日以上はかけている。

<<五年級の修学旅行>>

九十の春光已に尽きなんとしる新緑叢中残紅のあはれなる頃、五年級生徒30名は上野後藤両教諭に引率せられて修学旅行の途に上りぬ。

4月14日暁天松江を辞して米子にいたり、南して、四十曲峠の嶮を踏みて??たる山道を踰に、板井原勝山の諸駅を過ぎ、16日一葉の扁舟濃霧を破って旭川を下り、眼は嵯峨たる巌石を視、耳に潺湲たる水響を聞き、夕は月を踐んで烏城城下に入る。

止りて後楽園等を観ること一日、船に塔じて多度津に渡り更に汽車の便をかりて金刀比羅神社に詣す。
19日黎明再び汽船に塔じて波静かなる瀬戸内海を進み、呼べば答えんとする左右の蒼轡を相迎へ相送りて呉軍港に達し、請うて鎮守府海兵団を一覧し、去って江田島に往きて海軍兵学校を観、また船に乗りて宇品に至り鯉城人烟の中に入りぬ、

厳島に往きて潮に浮ぶ殿廊の上平相国の古を忍び、海に臨んで起る千畳のほとり豊太閤の雄図を追懐す、

22日広島を発して吉田三次等幾多の長亭短亭を渡り、出雲に入りて龍頭滝八重滝に銀河倒懸の奇を探り、40余里の道程を蹂破し去って26日遂に松江に皈りぬ、皈り来れば落花游泥に帰して春の俤また尋ぬるに由なく、碧雲湖畔の煙舊によりて遊子の愁情を惹く。