金沢第四高等学校の2

学生の身分で花柳界に入り浸ることのできる子息というのは、この時代いかなる出自の生徒にやあらむ。
さすがに眼に余る行為と云う事で巷にては非難轟々、とうとう校長迄まで罷免されというところがかなりの醜聞であったと推測される。かまやつひろしの「我が善き友よ」やら高椅和己の「邪宗門」などを思い出させるエピソードではある。
金沢に煉瓦作りのこの建物は残っているのだろうか?
老松は枯れてしまったかもしれない。

第四高等学校
市街の中央、金沢城下に在り、左は石川県庁に接し、右は尾山神社に連る、前面は野田の丘陵を越えて、遥かに加賀芙蓉の頂を仰ぐ得べし、校舎は赤色の煉瓦造にして、巍然高く天空を摩し、天晴れ看者をして北陸第一の建築物たるを知らしむ、


敷地面積は 23,909坪27、建物面積は2,645坪64にして、七十有余の職員と六百有余の生徒とを有す、十個の室内喞筒と一個の大喞筒とは、校内の要所要所に装置せられ、以て祝融の災に具ふ、
雨天体操場は北側には亭々たる数株の老松あり、是そ加賀騒動の巨魁大槻内蔵之介か玄関先の松にして、怪しき幾多の歴史を有するものなり、うべ春雨蕭々としてそぼふるの夕、秋風颯々として吹きすさぶの朝は、独り空しく当年の悲音を伝へて、鬼啾々の声かと怪まる、


思い起す往年法学士大島誠治氏来て本校の校長たるや、端なくも学生間に一種の弊風流行し、学科を抛て花柳に徘徊するの輩続々として出でしかば、忽ちにして世人の耳朶に達し、或は新聞紙上に、或は雑誌上に、嘖々としてその腐敗を責めざるはなく一時は第四高等学校の名誉は殆んど堕落の底に沈没し、遂に遠大深謀の大島校長も非職を見るの止むを得ざるに至れり、


次で文部省参事官川上彦次氏来てその後を次ぐや、専ら風紀矯正に力を尽せしば、昔日の弊風地を払ひ、勤勉質朴の風全校に普かりしも政府は別に見る所やありけん、俄然川上校長に非職を命ぜられ、理学士北條時敬氏代てその後を継げり、


爾来日未だ浅しといえどもその厳正なる処置は大に巧を奏し、今や大に面目を一新するに至れり、目下学生総数660人、内石川県最も多数を占め、新潟、富山、福井、東京、長野、三重、京都等之に次ぐ、而して之を指導する教官には、錚々たる人物に乏しからず、


例へば文学士浦井子宇鍠一郎氏の歴史に於ける、理学士野田貞氏の物理に於ける、文学士大島義修氏の哲学に於ける、法学士宮本平九郎氏の法学に於ける、理学士今井省三氏の化学に於ける、ドルトル、オフ、ヒロソヒー草鹿丁卯次郎の独語に於ける、村上珍休氏の漢文に於ける、いづれも皆斯学の大家にして、全国中殆んど之と比肩するもの少なかるべし、