第十二日目

夜明けの霧をかきわけ頓原(とんばら)を発つ。午前七時には幽谷の入り口にたったがこれからが大変だった。昼尚暗いしかも胸まで草の生い茂る草の中を薮漕ぎしながら二里ばかり行くと神社が有った。
瀧へ行く路を聞こうと思ったが家すら無い。あっても廃屋である。ゆきゆきてようやく馬子にであったので教えてもらって木工場の横道をたどった。人が滅多に来ないとみえて去年の落ち葉が路に振り重なって足元でさくさくと音を立てる。碑がひとつ、「八重の瀧」?とかいてあった。
暫く流した汗を拭いて涼んだ後、掛合(かけや)に出て昼食、龍頭瀧(りゅうずのたき)にも寄ろうと思ったが午後から雨が振り出して断念した。雨にぬれながら夕暮れに「三刀屋」(みとや)に到着、この日の行程は8里だったが足の方はまだ歩けそうに思えた。

胸まで草というのはいったい、どういう路をたどったのかと思う。瀧は行った事は無いが54号線沿いに「八重の瀧」という標識があるので多分これだろうと思う。龍頭の瀧は幾度か訪れた。これも掛合付近の国道から車で入っても結構有る狭い路である。

この日の宿泊「三刀屋」は「ロザリオの鎖」「この子を残して」などで知られる「永井隆」博士の出身地である。たしか父君も医者で、隆氏はここを出て長崎で医師をしていたところ原子爆弾により被爆した。被災の詳細の不明だった頃に、金庫の中のレントゲン写真が感光していたことから原子爆弾であることを既に推測できていたという話だったと思う。
実は被爆する前から自身は既にX線被爆障害により死ぬ事を予期していたので、本当は細君の方が自分よりも長生きできると思っていた。しかし皮肉な事に二児とともに残されたのは隆氏の方だった。焼け跡に残された遺品は細君のロザリオの鎖だけ。幼い子供たちとともにわずかに残された命を生きるという主題が、上記の本の題名となった。自分の出身地であるこの土地のことを父親の時代を語る小説にしていたのを読んだ覚えが有る。

第十二日、4月25日、晴のち雨
暁霧をわけて頓原を出して我等は午前7時既に山嶺重畳たるの間にたちぬ、道は之より逶?たる小径茨棘胸を没する所に入る。見上れは斧を入れさる数千年の老樹鬱葱として空を掩ひ、葛羅之に纏ひ艾○之にかかり悽愴の気 徐ろ人を襲ふ、

渓流はこの間を走りて或は雷謄し或は幽咽し、山禽は之の裡を飛翔して或は囀々し或は謳唱す。窄径いよいよ狭くして行路殆ど苦み、淋漓として流るる背汗は戎衣悉く湿ふ時、偶々一陣の清風谷を渡り壑をこえて来る、心地いはん方なきに知らす識らす二里許りを辿りて此の幽境に一石華表を見る。


石階高く連りてその何神社たるを知らす、八○瀧に至らんとして道を聞かんと欲するも里煙全たえて人影をみざるに、僅かに一茅屋を認めつき問はんとすれは廃扉空しく閉ちて音なし。愈々山蹊を上下して馬子の馬を曳き来るに逢ひ辛うして某木工場の傍より瀧道に入る。

上れは木深く石多く落葉去年のままに残りて路を埋め踏めはさくさくとして声あり、幾回か道を失して迂回すること頻りに、一危橋を渡れは丁々たる伐材の音と共に瀑声の堂塔たるを耳にす。

忽ち見る前崖黒き所素練をかくる十丈、飛躍盤舞千淙乱射して石をうちては余沫繽紛霰の如く雲の如く、岩に咽びては煙となり霧をなし再び落ちて渓流一路山の彼方に入るを。豪宕の景蕭然として人を起たしむるものあり、苔岩を攀づれば一小碑あり、曰く、八○瀧塵、

夕月のたよりうれしき瀧つせの 八雲の虹や幾世たつらむ、


上衣を脱して俗気を洗ふ多時、長簫してここを去り掛合にて行厨を開く、午後また発れば、天忽ち曇り雷鳴渓声に和して轟々然たり。

龍頭瀑をも訪はんとせしも遂に能はず、沛然として降る雨にそぼぬれて薄暮三刀屋に着す、此の日行程八里余、足なほ千山を踏破して余勇あるを覚ふ。