金沢第四高等学校の4

この頃はさすがにまだ「お殿様」もかなりの権威とそれなりのお金を持っていたと知れる。私財を投じて奨学金制度を支持するというところに、「恵まれたるものの義務」としての意識があったともいえるしある意味人材への投資ということもあったのだろう。軍人という進路を選ぶことを奨励していたというところに時代の波を感じる。
職としての軍人は、頭はよいが富裕階級の出身でない子弟にとっては有望な進路のひとつとなる。
それにしてもまだまだ「旧藩士」という分類法がしっかり残っておりますなあ。

かくの如きを以て、金沢地方出身の人才は続々として輩出し、将校にもあれ、学士にもあれ、其夥しきこと實に現今各府県に冠たりといふべし、蓋し今後薩長に代て天下の一方に雄視せんとするものは、必ず此の石川県なるべしとは、豈吾人一個の私言ならんや、



然り而して金沢地方青年は何か故に此の如く勇壮活発にして何か故に此の如く人才の輩出する多きかと云ふに、見れ固よりこの地方人士の遺伝によるべしといえども、抑も亦旧藩士前田侯爵の興って大に力ありといふべし、


即ち彼の学費金補助の方法の如きは、夙にこの地に開け、その機関を育英社と称し、本社を東京に置き、支社を金沢に置き、年々学資に欠乏せる学生の分に応じ、一ヶ月少なきは三円多きは七八円を支給し、成業の上は必ず社員となりて年賦償却の義務を負はしめたり、


その資本現今十万円なりといえども、過半は前田侯爵の出金にかかる、侯は元来軍人養成に心を傾けられ、軍人志望者には殊に惜まず金を給与し、以て之を奨励せらる、金沢育英社附属講習所は少佐を以て所長となし、大尉を以て幹事に充て、盛に軍人志望者を養ふ、


先に第九師団兵営の新築せられんとするや、侯は前に八万円を擲ち、後又二万円を寄附せらる、その旧士を愛し、旧臣を撫育されるること至れりと云ふべし、人才の輩出する誠に所以あるなり、聞く我出雲國にても旧藩士松平伯爵初め主なる紳士紳商の力により、本年より学資貸与の法を実施せられと、


是れ啻に出雲國の為めのみならず国家の為め大に賀せざるを得ざるなり、噫長く山陰の邊隅に収縮し、乏々乎として主義なく気骨なかりし出雲地方人士の、進んで天下の一方に立ち、国家の枢機を握るに至らんこと、それ又近きにあらん歟。