仁多地方行軍

しばらく行軍記を記載する。松江市街から玉造を通り木次(きすき)、大東(だいとう)、横田町、現在は安来市となっている広瀬を経由して帰途につく。銃を担い、数カ所にて模擬戦をおこなっている。
以下の文章は雑報に紹介された要約である。地図を見れば要所の地名が明らかなのでその足取りをたどることが可能である。

5.10 仁多地方行軍

(4号 74頁)

明治32年10月24日三年級以上は小島太田両体操教官に引率せられ後藤横山横田上野の諸先生に督せられて大原郡木次(おおはらーぐんーきすき)、仁多郡横田(にたーぐんーよこた)能義郡広瀬(のぎーぐんーひろせ)を経て三泊行軍の途にのほりつ、玉造(たまつくり)迄遠足運動をなせる二年級以下後尾せり、

湯町を過き8時半玉造着、小憩の後二年級以下を残して再び行進し、大谷村を経、大原郡に入り午後1時大東高等小学校(だいとう)にて午餐したため、3時20分佐世小学校(させ)に過り、晩鴉樹に噪ぎ炊煙遠近に起る頃、里熊橋の畔に時ならぬ雷霆を轟かし、木次町に至て宿す。


明くれば25日木次を発し同町を距る里余寺領村にて第二回演習を行ひ旧道火の谷の嶮を攀して山間の風致に俗膓を洗ひ、午後2時三成(みなり)高等小学校に至り昼食を喫す、やかて辞し東方里余絲原武太郎氏の○を縦覧し暮色蒼然たる頃、古市を過ぎ夜に入り横田町に着して各宿舎に就きぬ、


翌午前7時半より横田町後にて劇戦数刻の後同地を出発す、亀嵩村(かめだけ)を迂回し能義郡に入り西比田(にしひだ)を経、午後2時半西谷村着澤田潤一氏より一同へ昼飯を饗せられ緑門を作り煙火を打上けなど歓迎最 も力めらる、


3時半ここを発して5時布部小学校を経て広瀬に向ふ、遥かに月山(がっさん)は晩霞をこめて巍然として屹立し手もて招かむとするが如きも、日は既に没し而かも前程猶2里、隊伍三々軍歌も出でず粛々として闇を辿りて歩み傍を流るる飯梨川(いいなしがわ)の水音のみ淙々たるを聞く、広瀬に入り直に各宿舎に就きて26日を送る


午前8時より広瀬月山付近にて最後の演習をなし終りて飯梨の河原にて昼餉をしたため翻て帰途にのほりぬ、駒返の嶮を越えて点灯後松江に入る、在校の諸先生態々大橋橋上に出迎せらる、7時頃帰校、上野教諭の祝辞及訓諭ありて一同万歳声裡に別れたり、精しきは文苑欄の記事に見られよ