海軍兵学校の生活の3

「講堂」とあるのは「教室」と読み替えてみるとよいかもしれない。修学旅行の項で海軍兵学校を生徒が訪れているので周囲の雰囲気はそちらの記述を読んでみる方がかえって分かりやすいかもしれない。
ともかく広大な土地に広がる?校舎や湾内の様子は想像してもよくわからないのだが、これは現在の自衛隊江田島をホームページで訪れた方が実感できるかも。

いろいろな帆船、端艇がそろっているのは流石、しかも訓練でこれをすべてこなすというのも大変だが、この修練が航行に覆いに役立つという解説はもう少しさきにある。

講堂の南に機関講室あり、諸式機関の模型を有す、堂外の大気缶は、嘗て軍艦比叡に備へたるものなりといふ、其西に理化講堂あり、其西北に運用講堂あり、「パーク」形帆船稚龍を蔵す、稚龍は有名なる海軍義士古川庄八氏が、明治10年の大博覧会に出品せんが為めに設計構築せしものにかかり当時「ブルリグ」式にして今日の我海軍将校は、皆之に由て運用術を習得せしものなりといふ、


水雷講堂は之に接して其西にあり、之に隣れる水雷倉庫と共に、各種の水雷、電燈、諸電気測器を有す、其此掘割を経て、鍛冶場及柔道教塲あり、又西に撃剣教場あり、野砲庫あり、六門の野砲及び砲術諸属具を納む、南には兵舎あり、兵舎は本校所属下士卒の居る所にして、其人員百数十或は生徒練習の補助をなし、或は武器を整備する等、其他百般の雑業に従ふ、


其東南には事務所あり、校長以下諸職員日々此に出づ、砲台は之を西北隅の海岸に設く、其形之を一大軍艦に倣ひて構築したるものにして、17栂克旋廻砲、15栂安式速射砲を始め、軽重各式の熕砲15門、相並んて筒を比す、近時其上甲板上に、25000燭力の新式自働的探海燈を備へんとするの計画あり、


生徒館の東に一小丘あり八方園と云ふ樹木繁翠緑滴らんとす、八方の眺望亦佳なり、館の南一帯の広平地は、即ち本校の運動場にして、南北300米突、東西400米突計、其東方の一部は、之を区画して「ベースボール」塲及び機械体操場とす、西方の広地は即ち練兵場たり、練兵場より掘割に至るの海岸幾多の「ボートダビット」相並んで之を繞る、


現時本校所属の端艇は、「ランチ」1隻、「カッター」10隻、「ギグ」4隻、「ジンギー」1艘、螺旋付小艇1隻及び「カノー」(即ち一人乗りのもの)十数隻にして、「ジンギー」以上は皆帆走することを得、但し帆或は艇種によりて異れり、