2号 行軍

修学旅行が中止になって、在校生500名余りで行軍をしたとの記述です。一種の遠足ですが、三泊三日の行程。
無論基本的に徒歩のうえに、演習を行ったというのでそれなりの装備を担いでということになります。

松江から安来を経て米子泊が一日目。翌日弓ケ浜半島を一気に北上して境港のお台場に至ります。このあたりで一泊ののちに演習。目の前は境水道の流れの向こうに島根半島が横たわります。お気の毒にずっと雨天だったようです。
弓ケ浜は大山から降りてきた砂が堆積してできた砂州なので、足下がぬかるんで滑るということはなかったと思いますが。

境水道を渡船で渡り(橋が架かるのは昭和期になってから)向こう岸の森山に到着。すぐ背後にはかなり高い「高尾山」が控えています。晴天ならばこの頂上に登ると弓ケ浜から大山にいたるすばらしい眺望が期待出来ますが、この日はあいにくの雨で雲のなかに隠れていたことでしょう。「小さき生徒諸君和服」というところは、皆が洋装でなかったことが伺えます。

島根半島攻略?は諦め、汽船に乗って中海を通り帰ります。
地図でみれば、ちょうど中海を反時計回りにまわったような形でしょうか。

5.12 行軍
(2号 93頁)
新緑庭に満ちて、松虫の声若葉の裡より来る時、春神去るや未だ遠からず、夏帝来る事遂に深からず、最も旅行に適するの頃なり、されば我校にて学窓の苦鬱を青山泉の間に洗はんとて、広島地方修学旅行の議ありき、しかも故ありて果さず、遂に西伯地方三日間の行軍に決しう、


五月六日出発して荒島安来を経て米子に泊す、翌七日午前町端なる勝田神社々畔沙銀を敷き、青翠岡岳起る処、壮快なる活劇を演じ終り、直に境に向ふ、白沙青松五里の弓が濱を貫き、幾多の村落を過ぎて着す、

八日朝蕭々たる雨を衝て旧臺場付近に演習を行ふ、雨は征衣を透して滴々帽廂より落つ、麦瀧の間を進み臺上の夏草を踏み躙りて、砲声轟々日本海の海神を驚かし、壮絶快絶、座ろに征清軍の当時を忍びぬ、劇戦止んで両脚猶繁し一葦水森山に渡りて島根半島の雲両を試みんと欲すれど、


小さき生徒和服諸君の難みを慮りて、汽船第三境丸及び曳船数艘に塔じ、残り惜げなる西伯の山影恨むが如き島根半島を左右に眺めつつ、軍歌の声勇しく海底深く沈めながら煙むるに似たる中海を横ぎり、帰校せしは雨漸く霽れて、翠色城頭の松樹を彩る頃なりき、


此の行人員殆ど五百、行程海陸二十里、沿道至る所歓迎の意を表し大に便を得たり、就中赤江、安来、米子、境等に於ける厚き待遇は、我等の謝辞を呈する所なり。