皿屋敷

数えずの井戸


「数えずの井戸」  京極夏彦  中央公論新社 ISBN:9784120040900 C0093


京極夏彦の呪術にはまってみる。いやあ、お見事であった。
お菊を斬ったのは誰だ。やはりあいつかしらん。参考資料に三遊亭円朝「菊模様皿山奇談」とかたくさんあって面白そうである。皿屋敷伝説て結構あるのですね。北斎漫画らしき人物の配置等装幀の方もお見事である。うつくしい。

連載と書いてないので書き下しでしょうか。連載されても困るような気もしますが、連載だったらどういう心持ちで読むことになるのだろうかと想像してみるが無理だった。この勢いで「嗤うイエモン」読んでみるか…。


読みながらなぜか栗本薫を思い出す。作風は当然ながら全然似ていないのだけれど、そういえば時代物も栗本薫は書いていたのだった。思い出しながら「ああ、あの人は疾駆するように書き続けて、あまりに疾走していたから停まることが出来なかったのだろうなあ」などという感慨に浸ってしまった。恐ろしい勢いで書き続け、ほとんど推敲もせずにそのままを本にしているという話だかなにかを耳に挟んだことがある。

それを賛美したり「才能」だとかいう言い方をする人も居るだろうけれど、それを聞いたとき自分は「そうじゃあないだろう」と思った覚えがある。刹那に頭をかすめる物語を掴み取って文字として紙に叩き付けることが出来たとしても、短期間で書かれた文章が長期間愛されて読者に読み返されるとは限らない。「時間と推敲という元手をかけただけ、その物語はそれ相応の時間をもって読み返され読み砕かれる」ような気がするのだ。まあ、その割には「長い間かけて書かれた本をえらく短時間で読んだ気になっているお前は何だ」と詰問されても仕方ないけれど。
栗本薫という作家から離れ始めたのは、ちょうど20年前くらいだった。エッセイ集を読んでいてその思考論理についてゆけなくなったのだった。


「小説道場」の頃はそうでもなかったようだったのだが、次第にどこか壊れているような印象を感じ始めていた。結局の所、少女のまま大人になれないひとであったのかもしれないと、今になって思い返している。子供には、よそにも世界があり、いろいろな人が居るのだということが理解出来ないことがある。


作家として評論家として功を成し、ベストセラーで印税を稼ぎながら生い立ちからして経済的に恵まれた女の子が自身をめぐるコミュニテイもファンクラブも得て自己完結した世界に籠ることも出来た人である。別世界である庶民の暮らしの感覚など分かり用も無かったのは理解出来る話なのだった。ということで、「断罪」している訳ではないのでよろしく。

じつのところ、栗本薫と言う作家が書き飛ばさずに推敲を重ねてじっくり物語を作り出していたらどんな作品がかけていただろうかという疑問が湧いて来たというそれだけのこと。停まってじっくりと書くことが怖かったのだろうか。それはそれでわからなくもないけれど。