第八日目の2

行った事がないので、よくわからないがやっぱり今も廻廊には額がずらりと並んでいるのだろう。此の頃は漢籍、書も必須教養なのできっときっちり彼等は額に書かれた文字を読めたに違いない。
ここに居る神様の使いの「鹿」は奈良にいる鹿より優しいのだろうか?地図には「御山」は「弥山」と言う名で記されている。
白糸の滝は見ないで土産物を買って船で草津に戻ったのは昼過ぎ。旅館に戻ってそれから水道工事水源地を見学。広島の中学生が表敬訪問して来たので暫く歓談してその日は寝た。

歴代の尊崇また疎いからずして、遂に明治4年国弊中社に列せらる。結構頗る雅麗、退潮の時に当りては、突 として宮殿白妙の上に立つと雖ども、若し夫れ満潮の夜廻廊の百燈火を点ずれば、長く映じて碧波金竜を跳らすの奇観あり。廻廊実にその長さ百五十間、桟廊の海中に斗出すること七間、之を距る町余にして有名なる大鳥居あり高きこと五十尺、額面は有栖川熾仁親王の御筆にかかる。


遊舟潮に乗じてその下を渡ることを得、廊上の?間には悉く古今の名流大家の筆になれる書画の扁額を掲ぐ。その主なるものには、光信の三十六歌仙、丹倫の狛鉾、古秀の張陰飛、宗紫石の孔雀、応挙の鶏、或は丈山自刻の詩、或は元信の牛若弁慶等数え来ればその幾百なるを知らず、共に筆力勇にして醒風指端に迸るを覚ゆ。我等は本社前にいやちてなる神威を拝し去て、反橋にたちて鏡の池を見る、月明の夜池畔の景最も佳なりと、さもあるへし。


両性の神鹿よく人に馴れて、悠然このほとりを闊歩す。西廊を渡りつくせは、長松落々松に沿ふて無数の石灯籠あり。御手洗川はその左を流れて水而も清冽以て掬すへし。超えて大願寺に至り平重盛の手栽松を見る。桜花に名
高き大元はこの西なれともえゆかず、更に厳島町を上りて右に折るれは、御手洗川の清流淙々として清嶂の間を走り、激して湍となり湛えては淵となる、水や晶域や幽静、丘は丘と相連り全山悉く楓樹を植う、之を紅葉谷といふ。


思う秋天蜀錦この境の張る所?々たる鹿鳴をきくに至りても、その風致か如何に吾人か雅懐を動かすかを、踵を 回して大宮岡に五重塔及ひ千畳閣を見る、千畳閣は豊太閤か正に威を国外に放ちて凱旋せし時造営せしものなり。 此処に携ふる所の行厨を開き欄にもたるれは、蒼海の白帆近き松か枝に懸りたるなと眺望いふはかりなし。この景に対して徐ろ想起す。嗚呼百年の昔、毛利元就か威近國を併せて陶晴賢をこの濱に破りしを、時や風雨の夜、戦 闘頗る苦しみしと我等はその簫殺暗澹たりし時を忍びて転た脳裡乱る。


御山といふには白糸の滝といふがありてその高さ十又二丈素練をかくるが如く、その景又灑然たりときけども 行かざりき。七浦とかの勝をも探らずして厳島の風色此に了り、我等は竹細工売る店にて二三点を購ひ包嚢中に投じて直ちに帰路につく、


船は順風に帆を充てて矢よりも早く走り、長汀曲浦を廻り去り廻り去りて草津につきしも旱を過ぐる頃なりき。 もとこし道を再びして廣島の旅館に帰り水道工事水源地を尋ぬ。夜に入り廣島中学生某々二名来り訪う。膝を交へて談笑快語し数刻にして客去りて我等も床中に横はれば、伊豆岐島の山光水色猶目睫にありて、身は時に紅葉谷 に逍ふかと思へば又去りて千畳閣に嘯くが如き心地す、いつしか眠りに入れば夢もまた百八の廻廊を廻る。