第九日目

七時に起床、食後直ちに第五師団司令部を訪問。丁度砲兵第五聯隊が練兵場で演習中?だった。日清戦争のことを思い出し感慨深くする。のち上流川町にある浅野公の泉邸を見学とあるが、ここはどこだろう?

さて、いよいよこれから広島を出て帰途につきはじまる。というのは、此の日の宿泊は可部で3里しか離れていないから序の口。互いに苦笑とあるが、たしかに彼等の感覚ではそうだろう。煎餅蒲団のせいか、いよいよ帰途につくという感慨のせいかなかなか眠れない。

翌日から韋駄天の走りとでも云いたいような快進撃?がはじまる。
ちなみに、彼等が往きで通ったのは大体現在の伯備線ルート(米子ー岡山)で、帰りに通る道筋は現在の国道54号線(広島ー松江)だと考えると地図で見つけやすい。道路地図で辿ってみると大変面白いのでお勧めする。

第九日、4月22日、晴
七時褥をいづれば日は高く上りて、東の障子に松のかげあらはなり。食後直ちに発して第五師団司令部に至る、 砲兵第五聯隊まさに西練兵場に武を練る。幾百の健雄肥馬に鞭ちて東にとび西に走り、叭声砲声交々起れば、戦塵
漠々たるの壮景睫前にあるの思あらしむ。境内粛然としてしかも厳に、覚えす襟を正うして恐る恐る前庭に進み、 帽子を脱して跪き拝す。
思う征清の際かしこくも大○をこの地に進めさせられ、深く○襟を悩ましめ給ひて日夜群臣を軍事を議し給ひ しを。ここに至りて転た聖恩の鴻大なるにそそろ感涙に咽ひき。暫くにして頭を上くれは、階前の桜花さとふく 風に散りかかりて、我等か帽廂に点するよと見るまに、花吹雪、雪とふりしきてあたり白妙となりぬ。噫々この 花よ、嘗て聖上春暁の覧に入りしやいかに、流心ありといふ落葩いかでか情なきを得ん、哀れ汝そも当年の昔を 忍ぶよやあらむ。
大君のむかしのみやゐ春ふけて  をれかむ袖にさくら散るなり、
庭の東に池あり、甚だ大ならされとも水清冽中に噴水の設ありたまたま東副官来りて我等かために水を噴せしむ。一條の水は池中の岩隙を通して上ること三丈、日光と相映して紫龍の天に沖するか如く余沫飛んて霧をなす頗る壮観なり。きく副官我等と郷を同うすると、清容磊心よく語る、大丈夫亦血あり肉あり國を同うするものと國を異にして邂逅す、相互何ぞ恋々の情なからんや。
去りて上流川町なる浅野侯の泉邸を見る。城内広くしてしかも幽邃、楓樹参差として枝、枝と相戦ふ所泉流涓潺としてその下を流れて遂に一池に入る、濯縷が池といふ。池中小島あり、石橋あり、道は池にそふて或は低く或は高く、丘あり澗あり緑樹はこの間に鬱蒼として空を掩ふ。岸に一亭あり扁して清風館といふ、遥かに向揚二葉の二山を望み近く園内を双眸に恣にすべし。
池を回り盡せば躑躅花まさに盛りに、紫雲地に漲る、一碑ありその中に建つ、題して縮景園行幸記といふ、蓋し聖上嘗て鳳駕をこの園にすすめさせ給ひしといふ、いともかしこし。二羽の仙鶴この間を逍ふ何たる雅致ぞや、この景に接せしもの誰か仙郷に遊ぶの感なきを得んや。その外一塊の石、一架の橋、一としてその所を得ざるものなく、殆んど天然の楽園たるにそむかず。
我等もまさに廣島を後にせんとす、鯉城々外舟を賃して太田川を横ぎるとき、一声高く耳朶を徹するは午砲か、一筋の長堤川に沿ふて行けは、菫、蒲英岸にあやをなして見るもいと長閑なり。あはれうら若き春草も我等のふみにじる所となりて行厨はそか天然の筵上に開かれぬ。日は煦然として頭上を照し暑苦しきこといはん方あきに、牧牛堤の傍に横はりて草喰はんともせす。
一律なる直路幾里をか行きけむ、路傍の小亭に入り一椀の渋茶に渇を医し、とかくして橋を渡り坂を下りて可部につく。狭街にてひかれる破車と堆き馬糞とをさけて宿に入れは時4時をすくる20分、宿はまた木賃宿を去る遠からさるに、相顧みて苦笑一番す。煎餅よりも薄くしかも汚じみたる蒲団一枚に夢なかなかなり難く、試みに友を呼へは彼も亦半風子の襲ふ所となりて眠るを能うはすと呟く。この日行程廣島より3里。