第十日目

朝の5時に出発して、濃霧のなかをゆく。渓流に沿ってずっとゆくのだが、これらの渓流は水をあつめて最後は石見の國へ「江の川」(ごうのかわ)となって日本海へとつづいている。数年前お遊びで江の川水系をずっと車で溯って行った事が有る。まさに車でも一日がかりになった。

11時に吉田に着き毛利元就の古城趾を見学に寄る。吉田に戻り昼餉を終えて6時に三次(みよし)に着く。盆地だが現在でも交通の要衝の地である。山陰に向かう場合は高速道がつながっていないのでここで高速を降りて以降54号線を走る事になる。

夜になって宿を出て橋のあたりをそぞろ歩いていたら、無粋な騒ぎが聞こえて来て腹が立ったという。ここはかなりの商業地でもあるのだ。

郷土関係の講義で山陰の魚はここまで流通していたと言う話があった。当時魚は保存のために加工したものが主だったが、わずかに生で持って来れたのは「サメ」の肉だったという。サメのことを山陰では「わに」という。
三次の郷土料理に「わに料理」というのがあるらしい。
山陰の名所で「鬼の舌震」(おにのしたぶるい)というのは「わに」という音が「おに」に変換されてされてしまったせいという話。

ともあれこの日の行程13里半。なんともはや。どういう足をしていたのやら。

第十日、4月23日、晴

5時可部の宿舎を発するに、そよふく曉風未た寒きを覚えつ。濃霧全く晴れやらすして、近き山も見えぬに僅かにその棟をのみ現はしたる田家より立ち上朝炊の煙淡々として細きこと縷の如し。右手を走る流渓は潺々の響をなして時に岩をかかえては細石英を飛はし、石に懸りては水晶簾をたる。
上根につきし頃朝曉漸く東の山にそが半面を現はしそめて、野翁鍬を荷ふて出づれば村童牛を曳くきて来る根野下根等の各村落をあとにし再び渓流を左に伴ふてゆく、この水流や幾多の支流を合せてつひに石見の郷の川となるものなり、

ゆきゆきて一橋あり延々として長蛇の横はるがごとし、已に至りて渓流の俄に澎大して川をなせるに驚き、橋上に立て下瞰すれば石や水や木や筏や蓋し仙境画裡のものその景いふべからず、

ここを超えて又2里許りをへ11時吉田に着く毛利元就の古城址を見て転た当年の昔を追想すること深し、きく蟠龍正に天に沖せんとするやまづ池淵に潜みて鱗を養ふと我は思ふ。元就此の一小邑に守して隠然勇を貯へ遂に威陰陽十余州を食むに至しも亦これ彼を学びしものか、蓋し元就もまた嚢中の錐一朝鋭脱して以て現る豪なる哉。

透?たる小径をふむこと十丁再ひ旦々たる平路をふみてその墳を吊ふ、一碑あり題して「大江朝臣藤原元就之墓」(「」傍点)といふ、嗚呼一世の豪を以てその名を知られたる英傑もあはれ黄泉に眠りて碑石苔長なへに冷か也、碑前に跪けば万感交々起りて落涙滂沱時之を久して起ち去らんとすれば、墓畔の椿色漸くあせたるが二つ三つ風もなきに散りかかりたる、落葩それ情あり
や否や。


再ひ吉田にかへり昼餉を終り、名も知らぬ短亭長駅をすきて6時三次に入る、此の夜一友を携へて月明に乗し三次橋上に逍へは、月清く水白し。そそろ此の景を恣にする折しも、岸の青柳緑ふかき所絃歌断続として水流の淙々と共にその音を送り来るに、咄何等の没風流漢かこの詩境を俗化するかと、覚えす腕を扼して旅館に帰る。この日行程實に十三里半。