大仙行その1

さてまず出立のこと。4月14日である。朝が早いから宿に泊まったのかそれとも下宿なのかは判然としないが、4時起床である。多少曇っていたらしいが出る頃には好天のきざしが見える。しかし6時に集合となっているのに7時になってもまだ生徒があつまらない。

この地方には「出雲時間」というのがあるとは有名な話だそうで「T時集合」は「T時にそれぞれの家を出る」という意味になるらしい。すなわち遅刻はあたりまえ。ずいぶんおっとりした土地柄ともいえるが、近年自分もその風潮に染まっている節も在り耳が痛い。

漸く7時半に点呼をはじめて完了、やっと八軒屋町(はっけんや?)の船着き場へと向かう。現在もその町はあるが昭和になって大規模な干拓埋め立てが行われたため当時の俤を見るのは難しい。この周辺は宍道湖から東に流れる大橋川の丁度開始点にあたる。

あまりに人数が多すぎて4年級と5年級の生徒は曳船にのらなくてはならなかった。むろんぎゅうぎゅう詰めである。大橋川は東へ中海へと向かうだけなので波もなく流れは静か、大橋をわたる下駄の音が響くのを頭の上に聞く。きっと小泉八雲も数年前ここを歩いていたはずである。

津田、川津といえば現在は幹線沿いに企業に店舗、見渡す限りの住宅団地に埋め尽くされている。当時は菜の花が埋め尽くすのどかな土地であったとわかる。そろそろ大橋川は終って中海に通じる境目になるが、現在この附近に新しく架橋する工事が進んでおり橋脚がいくつも建っている。
中海にでるところ「馬潟」(まかた)附近には平成になって「中海大橋」が出来て久しい。ここをすぎると嵩山(だけさん)によって遮られていた風がもろに吹き付け波がひどくなる。船は中海の南岸に沿ってすすむ。揖屋(いや)をすぎて現在の安来市へと向かう。しかし、やたらと軍歌のお好きな生徒たちである。

梅香地に委して桜葩爛漫、飛び去り飛び来る軒頭の燕は、喃喃として其快弁を弄し、佐保姫の髪と枝垂るる青柳の糸も、嫋々として池塘に結んではとけ解けては結び、日長く風暖かなり、嗚呼一年の好時期、誰かこを棄てて方丈の隘室に座し、徒らに脳漿を課書にのみ絞るを以て屑とせむや、ここに於てか我校西伯大仙地方へ修学旅行の挙あり


4月14日。
宿婦の声に醒されて蹴然床を離れしは4時なり、窓を開いてなかむれは、空一体鬱たる浮雲に塞かりて雨将さに降らむ景色り、悠々仕度して宿を出つ、
夜は已に明け家々に雨戸のきしる音いと静かに、箒もつ翁寝ぼけ顔の女などとりどりに見られたり仰けは今までふさがりし黒雲の幕は、ちのかのもに開かれて、浅黄の色ところどころに見えていとも心地よかりき


6時の規定7時に至りても出でず、漸く7時半小島助教諭生徒をして前庭に集合せしめ、人員を点検し遂に校門を出でたり、而して広島方面へ旅行の五年級も此日の出発なれば米子まで一緒なりき、


八軒屋町に至りて船にのるに入りみだれたる雑香に、四年五年などの級は曳船に移るの止むを得ざるに至れり、されは不平の声騒然として船に満ち、中に曳船の方反てよしなど負けじ口をいふものさへありき、風静かにして朝暾朧ろ、行きかふ足駄の音大橋に響いて静かなり、間もなくして一声の汽笛と倶に松江の地を辞しぬ。


立って四方を見渡せは川津、津田等何方の村も、菜花黄にして点々青麦の間を綴り、桃紅李白ちのもかのもに時めき、向かひよりは真帆上げつつ松江に向かふ小舟には、二人の船頭煙草くゆしつつ談りあふさまなど、一として画中のものならざるはなし、


馬潟の瀬戸を過れて、船は直ちに漫々たる中海に出づ、水煙模糊たる揖屋の景、緑翠濃やかなるなる嵩山の眺めいとをかし、船中狭しを叫び出す軍歌は、遠く音波を興して水と共に海面に上下す、風は漸く荒い舟は愈々動揺し
中には酔はんと叫ぶものさえあり、