仁多地方行軍の2

行軍記の本文はじまり、はじまり。
校旗を掲げて行軍を開始する。尋常中学校は松江城のある市街の北方丘陵にある。馬場がどこかはよくわからぬが、その附近から出発したと考えることができる。
早朝七時に出発、さすがに軍事訓練の一環ならば以前紹介した「修学旅行」のように遅刻者が多数ということはあるまい。


嵩山(だけさん)というのは、市街から東方にそびえる山の名称。その向こうには中海が広がっている。宍道湖と中海に挟まれる市街は河洲なので北方に横たわる島根半島の山々と東方に聳える嵩山はどこからも観る事ができる。狼煙を擧げる要所でもあったらしい。


市街を三百人の学生が列を組んで南下する。現在有る一番西方の橋は昭和期に干拓埋め立てした地域を通る幹線となっている。ゆえに、この時はまだ河畔に間近に面していた天神街の道を行った事になる。木造橋を、足を踏み鳴らしながら通る様は壮観だったことだろう。
以降宍道湖河畔に沿って延びる道を次第に西方へと向かいながら「布志名」へと至る。「布志名焼窯」が有名。
元弘の時代「布志名判官義綱」の墓所のある山を左に見る。

(1)
月落ちし碧空、晨星二三點燦として希望の光を放ち、城壕をわたる秋暁の風寒く、向ひの木立?として寂しさのみ深し。
銃を衝て校庭に擾々壮語するの健児、正に肉肥えて血迸るの概あふる。
既にして戞然たる佩剣の音漸く加はり来れて、東方一帯紫雲棚引きしよと思ふ程に、更に燃ゆるばかりの紅を潮し、一盤の朝暉華やかに嵩山(だけーさん)頭に眩きとき、喨嚠たる喇叭朝の罩霧を破りて響き渡れば、既に校旗は桜の馬場をゆらぎ出でぬ。



時や七時、歩調整々三百の健児意気天を衝きて足自ら軽きを覚えつ。
秋風徐ろに征衣を吹きて快いふばかりなく、市街を南に貫きて、大橋天神橋おどろおどろしく踏みならせば、やがては黄塵の巷を後にして、路は碧湖に沿ふて長し。


湖渚の蘆葉水に折りふしてさやとの音もなく、尾花の穂波うるはしく朝風になびくところ、小霧水をかすめて立迷ふ趣殊にふかし。布志名(註 ふしな)といふに至り、道の左に俊秀せる一山をみる。布志名判官義綱の英魂、万古に眠れるの地なりと。


思ひ起す元弘の昔、鸞鳳伏し竄れて鴟鶚七道の空を翔り、あさましや 至尊は豺狼の?手に、遠き島路は遷さり給ひ、畏くも滄溟森々たる絶海の孤島に悩ませ給ふの時に当て、突如没義の臣中に起てる鶏群の一鶴我義綱なり。
此に於てか帝の脱幸となり。次で建武の中興なる。之を思へば欽仰の念交々起りて懐旧の情に堪えず。嗚呼五百年の本日墳塋の下、公の夢や果して如何ならむ。