第三高等学校の2

東京と京都では書生への見方が違うというところは興味深い。関西のどちらかという実利主義的な見方が影響したものか。おかげで学生さんは鼻っ柱を折られて奮起するというのはかえって良いかもしれない。
それにしても帝国大学に進級するまでの関門は、いくつもあって大変であったようである。お金も必要、頭も必要、ついでに都会でお坊ちゃんさまとちやほやされ数々の誘惑が待っている。大成するまでの道のりは遙か先なのである。

其後明治30年に至り文部省令第三号を以て第三高等学校に大学予科を設置せられ、7月に至て120名の学生を募集し、9月より教授を開始せられ以て今日に至れり、これより先き京都帝国大学の設置せらるるあり、
且つ大学予科増設の計画ありしを以て本校舎を新築せらる、即地を旧校舎の南になし、9月に至り功を竣へしを以て、新築校舎に移転せられ、吾大学予科生は此校舎に於て教授を受く、但し専門部学生は旧校舎内に於て教授を受く。

本校の学生数は総計275名にして、専門部に於ては法科生42名、工科生114名、大学予科120名とす、然れども専門部は校舎も別にして全く関係なく、且つ将来此の部は学生を募集することなければ、此の状況は一切除き、専ら大学予科に就て述べんとす。

前述の如く本校に於ては従来専門部学生に依て維持せられし所、昨年来大学予科復活せられしこととて、吾輩120名が種々の地方より集て、一校の下に於て教授を受けし以来未だ一年に満たざれば、未だ本校の特色として学生の気風上に於て唱道すべき程のものなし、


唯其期する所従来の学生とは稍異り、前者の如く卒業後直ちに社会に立ちて事をなすものにあらざれば、其志も永遠の先に存することとて、幾分か子供らしき点を存する如し、殊に京都の如き大都会にありては外界の刺撃を受くること大なると共に、誘惑物も亦多く、随分多数の学生中には非難を受くるもの多しといへども、吾大学予科生の如きは各自が分を守り、己が務を全うし、一般学生の模範たらんことを期し、奮て前三中時代の名声を回復せん事を務むるものの如し、


之に加ふるに京都に於ては東京と異り一般に書生を対遇すること極めて冷談なれば、幾分か之に激し奮て将来の業を期するものの如し、故に小成に安ずるが如きこともなければ、傲慢に流るることもなく、先つ真面目に勉強すると共に運動も亦盛に行はれ、殊に柔道撃剣ろんてんす等の如きは、大学学生と混じて之を行ひ中には非常に熟達せる人もあり