海軍兵学校の生活の1

今回から海軍兵学校の日常にせまる
ここを卒業すれば海軍将校も現実になるかなりハードな生活。体力と頭脳が必要な学生生活である。
いまやGPS人工衛星による位置判断、天気図も瞬時に情報がはいる時代であるが、これが無い時代の苦労困難を垣間みることのできる貴重な記述あり。
では、はじめます。

3.5 海軍兵学校  在江田島 かうせつ生


(2号 56頁〜66頁)
(註 原文はカタカナ書き下し文。入力の都合でひらがなに変換)


藝州の南、鯉城を去ること7里、瀬戸内海に一島あり、江田島といふ、東、一帯水を隔て、呉軍港に対し、北、似島を以て遥かに宇品港に臨む、全島山岳重畳にして些の平低なく、地味磽?にして人煙甚だ稀に、春は清花の楽なく、秋は落葉の愁あり、唯見る其北部、西能美島の迫る處、此に一大好湾を形成し、湾頭数棟の赤煉瓦、魏々として雲際に聳ゆるあるを、是れ實に帝国未来の海軍将校が、世風を絶て、三年の星霜に蛍雪の苦を積む海軍兵学校なりと知らずや


海軍兵学校は明治4年の創設にかかる、当時未だ海軍兵学校寮と称し、専ら海軍将校を養成する所にして、之を東京築地に置けり、後機関学校と合し、明治22年を以て江田島に移り、其時既に海軍兵学校と称せり、然れとも海軍学術の進歩するに伴ひ、将校機関官を併せて、之に同一の教育を施すは、事頗る困難なるを以て、将校科及機関科の2に分ち、各特別の教育を施す至りしが、27年に至り、遂に海軍機関学校を横須賀に分設し、海軍兵学校は専ら海軍将校を養成する所となりて、其旧に復せり、


日帝国海軍将校、其数凡550人殆んど皆本校の出身にかかり、昨年末の卒業生を以て、實に第28期となす、本校の帝国海軍に於ける、亦大なりと謂ふべし、彼の山本少将、日高少将(現本校長)、有馬少将の如きは、其第一期卒業生なりと云ふ