海軍兵学校の生活の11

気象衛星もなく、かろうじて無線、電話があるという時代には、海洋船舶航行にはたいへんな危険を伴っていたということがよくわかる。そういえば「坂の上の雲」を読んだとき、バルチック艦隊の敗因の要素のひとつに荒天による破損が挙げられていたような気がする。戦艦とて気象の猛威にはあらがうすべもなし。
別の項に外洋航行記みたいなのがあり疑問に思っていたのだが、どうも海軍兵学校の生徒が投稿してきたものかと思われる。機会があればおいおい書き起こすつもりである。それはアメリカ方面を行き先としていたようだ。

ちょっと区切りは悪いが、これから暫く「兵学校の生活」がかたられる。
かなり体力的にも精神的にもハードなような。といいつつ短期集中型の「将校候補生養成学校」ゆえに仕方ないか。
基本的に「軍役」なのである。

海上の真味、此人にして始めて談すべし、
25年比叡が練習候補生(現今新任大尉)を乗せて南洋に航せし時は、其厄決して之れに劣らず、實に彼海員が、最も恐るる所の颱風の渦中に巻込まれしものにして、総員死を決して力を尽くせとも、又奈何ともする能はす、
一同已に命を天に任じ、軍服を正して甲板に整列し、将に万歳を三呼して、艦と共に覆没せんとせしに、嗚呼天なる哉、運なる哉、此時風波漸く欠り、僅かに命を棄てさるを得たりといふ、蓋し当時此地方の颱風につきては、未だ航海家の多く研鑽せざりし所なりといふ、


現今の練習艦は金剛にして、昨年末卒業生を乗せて近海を航行し、次で本年3月16日を以て横須賀を発し、南洋に向て遠航の途に上り汽走10日、帆走50日にして今現にシドニーにあり、之れよりメルボルンに航し、ヒージーを経、戦況に依りては或は呂宗に寄港し、再び赤道を越え、8月未日を以て皈朝すと云ふ、明年は比叡之に代り、南北亜米利加の西岸に航すべしと、


生徒の日課は四季其時間を異にすといへども、其大体は相同じ、今日初夏の候に於ては、「総員起し」は5時20分にして、当直監事一令の下に、嚠喨たる喇叭海上に鳴れば、生徒総員一斉に床を起ち、毛布を畳み。「ベッド」を整頓して洗面所に向かふ、嗽盥の後靴を磨き、衣服を正ふす、

6時「館内点検」鳴る、是れ毎朝生徒2名宛を以て、各寝室及び温習所を掃除するを以て、当直監事之を点検するなり、6時半食事、終りて事業服に着替ふ服装に3種あり、軍服、通常軍服、及び事業服之れなり、
軍服は正装を兼ね、日曜外出の際、及び儀式の時、短剣と共に之を用ふ、事業服は白小倉の単衣にして、恰も水兵の夏衣の如し、朝食後夕食まで、四季之を着す、通常軍服は黒「セルジ」にして、其他の場合に於て四季之を着用す、7時45分、定時点検あり、分隊毎に玄関に整列し、分隊監事其服装及姿勢を点検し、監事長之を統ぶ、

8時授業始まり、午後2時に終ること他諸学校に同じ、授業は2時間を通じて之を行ふもの多し、2時15分より別科始り、3時半に終る、別科は運動の諸科にして、柔道、撃剣、端艇、及び体操とし、各級毎日交互之を行ふ、3号生徒には図画をも課す、柔道、撃剣には教員各2名あり、