海軍兵学校の生活の10

ここでなぜか勝海舟がでてくる。原文は縦書きで訓点つきなのだが、横書きに訓点というのは大変なので白文で書き起こす。白文の読み方は学生時代に習った教師いわく「ヲニがでてきたら返る」。語順は英語と一緒「○を」「○に」という目的語が下になって並ぶ。音はわからなくても漢字の意味がわかれば英語より理解できるので挑戦してください。

勝海舟は「聞き書き」の「氷川清話」?(岩波文庫?)しか知らないが、ほかにいろいろあるのかもしれない。江戸弁の語りがたしか面白かったはず。もともと磊落な性格のひとで、話も上手だったらしい。小説で挙げればNHK大河ドラマになった「母子鷹」「勝海舟」(子母沢寛?)とか、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」「花神」とか思い出す。
この人の不肖の息子がアメリカ人の女性と結婚した。その女性の日記?が文庫になっていて読めます。
(「クララの日記」だったか)

勝海舟翁が断腸記安政6年東帰朝陽艦遭難漂蕩記に曰、

(原文に訓点あり、都合にて白文とする)
 安政6年、余聞幕府将発節使海外各国、即請東帰、5月5日、駕朝暘艦発崎陽、経一昼夜、達下関又航抵塩飽島而泊、練習水卒、皆係島民故也。十日航内海、十一日航紀州洋、飛雪如団、西北風強甚、以急帰東、冒航不止抵伊豆洋、距大島三十里矣、風力加暴、駭濤搏空、高於艦上二三尺、衆奮協心、操縦尤力、風雲益�、余令斫去艦上短艇、以殺風力、艦篏傾仄潮滲入内、余期風勢益狂、将断?檣、任船遠漂、此時困窘、莫可名状非躬当其衝、誰能諒之、衆皆絶食、動作水中、経一昼夜、精力疲憊、余在艦上、自搏浸潮凍無生気、喉枯声咽、不能出言、至夜搏解仆地、昏迷不弁人事、将為潮蕩去於海衆視之不能顧救、頃焉自活又搏體後?以司指揮、自謂此時万死不能自己、而世間利達富貴之念 雪散霧散矣


(註 訳してしてみる かなりいいかげん)
安政6年、余は幕府が海外各国に使節を送る所だと聞いて急遽東へ帰る決断をした。5月5日、朝暘艦に乗って崎陽を出航し、一昼夜かけて下関迄行き、塩飽島に碇泊した。これは練習中の水兵が皆ここの出身だったからである。10日に内海を航行し11日に紀州沖に達したが、吹雪に見舞われ西北の強風が吹くなかだった。

どうしても早く東へ向かいたく、このなかを航行する暴挙をやめず、伊豆沖の大島から30里のあたりか暴風に見舞われ怒濤は甲板の上二三尺の高さもあった。乗員心をあわせ操縦をしたが風は止む事なく、余は風力を殺そうと艦上の短艇を切り離す命令をした。とうとう船が傾き、浸水しはじめたのでマストを倒して漂流するに任せるに至った。このときはほとほと困窮し、名状し難い思いをした。

乗員は皆絶食、水浸しの中で働き、一昼夜働き続けて疲労困憊、余はといえば体を船に縛り付けてずっと指揮をしていたが、体は潮まみれ生きた心地も無く喉は枯れ果て物が云えない。夜になって縛り付けていたなわを解かれるとそのまま倒れ伏して人事不省となった。
海で長年すごして来たものに云わせると助けは期待できないだろうという。少しして余は生き上がってなんとかすわったままで指揮を執ったが、余は此の時死んでなるものかと自分に言い聞かせた。この経験を経たおかげで世間の出世や富とかの念は胡散霧散したね。
(以上 訳おわり)