海軍兵学校の生活の13

クラスメイトの起源はこんなところに?というのはいい加減だが、実際の所「陸軍兵学校」(こういうのが当然ありそう)はどうだったのだろう。
司馬さんの本を読んでいると海軍は比較的階級的縛りが陸軍に比べてゆるかった?ように思えるのだけれど。残念ながら、陸軍将校養成学校についての投稿がある巻は手元にない。
教官が入学時から卒業実習となる遠洋航海まで一貫して教育を担当するというやり方は理にかなったことだろう。組織としての統制を保ちつつ、しかも互いに助け合うという精神を養う。
どういう組織にとっても重要なことである。

運動会の定期のものは、2月の兎狩、4月の端艇宮島行、5月の射的大会、6月の漁獲、紀元節天長節黄海海戦記念日及卒業式に於ける海陸運動会等なりとす、海上の運動としては、或は端艇を競漕し、或は水雷 n 爆発を行ふ、其他運動会は臨時之を催す、射的大会に於ては、優等射手に賞牌を与へ、最高得点の分隊に優勝旗を与ふ、本年の紀元節には海陸相続けて二里の分隊競争を行ひ、300の壮士意気天を衝く、行軍は春秋の2回あり、野外戦闘の諸要務を修す、又鳳翔或は江田島丸(本校附属汽船)に搭じて、近海を航行すること?なり、


生徒は所収学科の程度によりて之を三級に分つことは、前之に述べたりしが、統御上、別に之を10分隊に分ち、各分隊の一号生徒中より部長及部長補を選んで之を監督せしめ、其上に分隊監事ありて、諸指揮権を有し、又監事長ありて之を総轄す、
即ち監事長は、生徒、下士卒の軍配、風紀を維持励行し、且つ体育の責に任ずるものにして、猶ほ軍艦の副長のことく、分隊監事は其命を奉じて各分隊を統ぶること、猶分隊長の如し、 分隊監事は大尉教官を以て之を兼ぬ、而して運動競争の如きは、必ず分隊を以て相行はしめ、務めて分隊の名を重んずるが如くせしむ、

又生徒間の風紀制裁の如きは、各級の団結によりて保たれ、而して上級生徒の責最も重し、我海軍に於ては殊に「クラス」なるものを重んじ、学校卒業の後は、後会の名の下に各「クラス」の団結をつくり、「クラスメート」相愛し、相扶くるの實を擧げしむ、


生徒の身分は、准士官下士卒との間に在りて、准士官相等の礼遇を受く、現任の校長は、少将日高壮之丞氏にして、征清の役、大佐を以て橋立に艦長たり、教頭は富岡大佐、監事長は松本(有信)中佐とす、

教官には運用術 に中佐1名、大尉5名、航海術に中佐1名、少佐1名、大尉2名、砲術に中佐1名、少佐1名、大尉4名、水雷術に中佐1名、大尉3名、機関術に機関中監1名、機関小監1名、大機関士1名、造船少技士1名あり、普通学には、海軍教授10名あり、内4名は学士なり、其他専務監事に少佐1名あり、軍医官、主計官各数名あり、又教員には兵曹長1名、機関兵曹長1名、准士官3名、下士十数名あり、

各級各科の武官教官は、3年の間其級の生徒を教育したる後、更に共に練習艦に乗組みて、或は其航海長と為り、或は其砲術長と為り水雷長となり、分隊長となり、引続き実務に就きて、之を訓練するを例とす