武徳会の柔術試合の1

琵琶湖端艇競漕は武徳会の主催とのことでしたが、その説明がここにありました。短艇競漕は試合の前にわざわざ応援にかけつけた模様です。訂正いたします。
大日本武徳会第四回青年大演武会」という名称はやはり時代そのものを表しています。
「柔道」ということばというより「柔術」ということばの方がまだ一般的であったかもしれません。

4.2 武徳の光  ご、い
(8号附録 12頁〜16頁)
想へ回せば去年の春緑滴る皐月の頃我校に柔道部を置かれし以来此に一年雨降る旦も風の夕も練りに練り鍛ひに鍛ひし此腕何の時にか試さむと猛る心を抑へつつ好敵手の無きをかこてる折しも
本年中夏を期して大日本武徳会第四回青年大演武会を京都に於て催せるとの報に接し肉踊り骨なりて草木も萎るる夏の日に流るる汗も拭きあへず只管稽古に身を委ね出発の日を待ちぬ。


時は維れ明治35年7月28日の朝快漕丸に乗り東をさして纜を解く、見送り人の帽をあげつつ「しっかり頼む」の一言は深く心魂にしみ渡り胸つまりて言ふを得ず只無言の中に首肯せしのみ、あはれ県下の名誉と学校の責任を負うて彼地に向くからは如何なる敵もござんなれ打ち倒さでは又と面は会はせじとは各言はでも胸中の決心なり。


是より海上穏かに29日の朝霧に敦賀の港につきそこより汽車に乗りて変る土地土地の風景に心も共に移り行き此日は夕景に京都に着きぬ。
明る30日よりは8月3日迄は高名なる諸先生の稽古に預りぬ。


8月4日短艇競漕の日なれば我校選手の手並の程を見むものと大津をさして汽車にて飛ぶ。
此日我校両選手ははえある大勝に名を琵琶の湖に轟かししかば心も瀕に勇み立ちて京都に帰りぬ。