岸清一

岸清一伝というのがあったのでぱらぱらとめくってみました。

生まれは雑賀町(さいかまち)、橋南(きょうなん)の地域です。
松江市街は大橋川?を境界に、橋南、橋北に分けて呼んだりします。橋北にはお城やその跡に建った県庁やら官庁がおおく、江戸時代は上級武士の住まいがあり、橋南は家禄の少ない武士や商家があったと分類できそうです。
橋北の上級武士の子息には藩の学校に入学が許されましたが下級武士には許されず、雑賀町には実学を重んじる私塾が別にあって、学制制度が始まってもやはりそういう流れは残っていたらしい。

この雑賀小学校で小学校の頃から頭角を現していた子供たちのなかに、後の宰相になる若槻礼次郎や岸がいた。
だいたい家も裕福ではないので此の頃「小学校」「中学校」を出たら即就職だったのですが、なんとか旧松江藩の殿様の世話や奨学金を得て東京大学予備門を経て、大学に飛び級で入学?
卒業生ほとんどが「官吏」になるところを、上司にへいこらする役人は性に合わないと独立独歩で弁護士事務所を開設、パトロンなしで自力渡米をして帰郷してからは英語がしゃべれる弁護士として売れっ子となり。

犬養毅にみい出されて貴族院議員にまでなれたところですぐに犬養が暗殺され政治界への道が途絶。
とはいえ、下級武士の子息が東京でここまで出世、かなり金銭的にも裕福にという出世,なかなかあるものではありません。
事務所は麹町区丸ノ内というからはんぱでない。

弁護士会や体育協会の発会にも力を尽くし、故郷の松江にも多大な貢献をしてくれたこの岸氏、県庁前にはブロンズ立像が建っております。
なんであんなに頭がでかいのか、と不思議に思っておりましたらあれはもともとのプロポーションらしい。
松江時代の恩師が「福助ににている」と述べております。ちなみに若槻は「一見すると愚」にみえるとか。
まあ、小学校のころの恩師ですから。

なかなかおもしろい御本でありました。