4号 吉野と高野山の6

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つぎは、どちらに参ろうか?


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我は即ち、唐崎の夜雨をいはすして老松を称し、瀬田の夕照をいはすして唐崎を称し、之は比叡山上の眺望と、長等山前陵下の懐古と、逢坂山の瀟洒清麗とを加へて、近江の五景を作らむ也、逢坂山は既に前に其景を叙したり、長等山前の陵をとれるは、其陵前の風景を以て、秀麗なりとなすは非して、全く歴史上の観念に基けるなり、


昔天智帝都を志賀の大津に奐め玉ひて、制度立ち、学校興り、文物凛然たるものありき、思ひきや、一陣の瓢風は、名ぐはしの吉野より吹き起りて、いはばしの近江の国を吹荒し、長等の山前に若木の花を散らし、大津の宮の礎長へに絶えて、近江帝の偉国全く没し、ただ後の世の人の古を忍ぶよすがのみとならんとは、
柿本人麿は、一たびこの荒都を過きて、「浅海の海夕なみ千鳥汝が鳴けは心もしぬに古思はゆ」となげき、再び過きて「ささなみの志賀の大かた淀むとも昔の人よまたも逢はめや」と悲しみ、平忠度は、「ささなみの志賀の都も荒れよしを昔ながらの山桜かな」の詠を残したり、



長等山前の陵は、實に弘文帝の陵なり、若し一たb此陵に謁せんか、陵前の松風の響には、壬申の矢叫びを想ひ、田園に散在せる石碣んは、志賀の宮居の断礎を疑ひ、懐古の情は油然として禁する能はさらむ、
辛崎の松は、一株の老幹、湖の水翠なる邊に起り、数百の枝梢四方に分れて、辛崎明神の小祠を隠し、或は横に蟠屈して長蛇の如く、或は縦に林立して船檣の如く、偃塞縦横、翠蓋地を蓋ふもの殆百坪、實に希世の古松なり、唯近時樹漸く衰耗して、枝葉の疎なるを惜むのみ、


瀬田のから橋は、川の中央なる小島によりて二分せられ、其長大橋は九十三間、小橋は二十三間、虹の如き高欄と、青銅の宝珠とは、長へに古の轟の橋の名残と留め、橋上より南を望めば、勢多の碧流は、翠浪の湧くか如き石山の連丘の下を流れて、青羅の帯をなし、旅棲十数蜈蚣\footnote{たこ?}の如く水崕に並ふ、北は即洋々たる琵琶の海、水は天影を涵して濶く、波は練光を潟きて平かに、帆船白鴎の如く浮ぶ、比良の山は杳として遥に翠黛を引き、比叡の峰は近く碧玉の簪をなす、


若し夫れ月明の夜に至りては、范仲淹か岳陽棲記に、「長煙一空、皓月千里、浮光躍金、静影沈壁、漁歌相答」といへるもの、移して瀬田橋上の景となし得べきを疑はす、終りに比叡山上の眺望か、東には、南の大津市街の北より起り、稍広長なる水帯をなし、北に延ひて渺茫際崖を見さる神州第一の琵琶湖を見下し、西には、即山城の平野画の如く、瓦を長方形に並へたる如き京都の市街と、銀蛇の横はれる如き賀茂桂淀の諸流と、其間を彩とるを見る、左には雄大なる観を具へ、右には美麗なる景を得、所謂梅と桜とを両手に持てるもの、實は比叡山上の眺望なりとす、

凡そ山の一方に絶佳の景を有するものは甚乏しからす、然れども、山の両側に於て、這般の大景を具ふるものは、我未た比叡山の外に之を見す、真に天下の大観と謂つべし、そこはかとなく、書き去り綴り来れは、逢坂の山、琵琶の湖、そのわたりの景色、杳として眼前に浮ひ出て、夢の如く幻の如し



筆を掴きて後少時、上野の鐘の音夕風の送られて一つニつ三つ四つ五つ、
此日明治三十一年九月二十七日なり