4号 旅記録 吉野と高野山の5

不案内な土地のことなので。さっぱりわかりませんが、近江八景のはなしになります。
音楽を聴きながら、というのが苦手なアンチながら族の自分が打っていたので、どこか変な打ち方をしているかもしれません。すみません。タイピングミスが最近多くなったのは、ボケのはじまりか?


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其三、  逢坂山


逢坂山を越えくれは、 木の間に見ゆる鳰(にお)の海、
見渡す限は知らね共、 さきこそ浮べ我こころ、
近江の海の右ひたり、 から崎粟津瀬田かた田、
離れて立てる竹生島、 何処か名のなき所なる、
昔は志賀の大わたに、 懐古の袂やしぼりけむ、
開くる今の大御代は、 進みてはやし馬くるま、

近○の海南に流れて瀬田川となり、断虹の如き長橋を架し、比叡の山南に??して、長等逢坂の諸山となる邊 天下の名勝を一所に集めたり、路傍に横はる一小石碣も古人の面影を残さざるなく、小川に渡せる朽橋も昔の名残を留めさることなし、


逢坂山一帯の地は歴史的なる、随て詩的なり、我は逢坂の名を愛す、其地に至りては益之を愛す、逢坂の名を聞くもの、誰か月明の夜に弾琴せ蝉丸を想ひ起さざらむ、誰か闇の清水に袖ぬれし俊基卿を恋はざらむ、誰か其昔一は別を惜み来を迎へ旅人の行きかひし逢坂の関なるを思はさらむ、
我の逢坂を愛す るを豈偶然ならむや、若し京都より日の岡峠を越えて、国道を東に進み、天智帝の御陵を左に拝し、行くこと里余ならば、道漸く高くして相逼れる両山の間に通するを見む、即逢坂山に来れるなり


坂を上ると少許、左側に間口大なる平家の茶店あらむ、
この茶店の前には、走井と刻せる石造の井筒ありて、其中より清水の混々として溢れ出つるを見む、古歌に「走井のほとを知らはや逢坂の山の関ひきこゆる夕影の駒」詠せるもの即これなり、其水甘くして清冽、夏日の炎熱に疲れたる旅人、之を汲て、沙漠の中に「オアシス」を見出せる喜あり、其茶店に走井餅を○く、
今は、鉄道の停車場(大谷)前に支店を設けて○く、此地の名物なり、逢坂山道は其傾斜の度甚急ならす、其道の坦々たること砥の如く、車馬の往来織るか如し、両山の崖には黒蒼々たる松樹茂生し、其緑陰の下随処に清水を湧かす、幽趣掬するに堪へんや、


小野の小町を以て有名なる関寺、関の清水、及逢坂の古関址は、今其跡定かならさるか如し、蝉丸の祠は、路傍の山崖に三所あり、山道の峠を下りて進むこと少許、大津市街の家屋の上に、一帯の水明鏡の如く拡かれるを見む、これ即鳰の海なり、古人この周囲について近江八景をつくれり、
堅田落雁、比良の暮雪、辛崎の夜雨、三井の晩鐘、矢橋の帰帆、瀬田の夕照、粟津の晴嵐、石山の秋月これなり、


堅田を知らす、比良を遠く湖の北岸に望みたるも、其暮雪を見す、石山に参りしこと二度、瀬田の長橋を渡りしこと二度、三井寺に詣てしこと二度、唐崎の古松を見しこと二度、粟津を過きし一度、然れとも、未た嘗て秋月と夕照とを見す、未だ嘗て、晩鐘と夜雨とを聞かす、未だ嘗て晴嵐にあはす、是を以て、固より八景を品罵する資格なしといへども、我はすなはち此等の八景を捨てて、別に風景を取らむ也


夫れ、秋月といひ、暮雪といひ、春嵐といひ、夜雨といふ、景の絶佳なるものあるべしといへども、此等は一定の季節に於てするに非れは見る能はさる所のものなり、即秋の明月の夜に於てし、冬の快晴なる暮に於てし、雨の夜に於てし、風の日に於てせさるべからず、而して、此等四時に亘(注 わた)れる、幾多の風景を賞せんとするは、豈尋常一過の客の能く為し得べき所ならむや、此故に、我は、秋といはす、冬といはす、昼といはす、夜といはす、気候の如何に論なく、時季の如何に論なく、常に賞し得べき風景をとらんとする也、読者にして此事を是認せんか、