法吉村誌そのいち

「法吉村誌」 内田映(うちだ あきら) 昭和63年8月刊
               黒潮社 松江市向島町1823

内田 映(うちだ あきら) 松江市国屋町 明治43年生まれ

緒言に書いてあった事ですが、法吉村については役場が昭和21年隣接していた法吉小学校の火災の類焼をうけ公文書ほとんどが消失しました。内田氏は仕事を引退してから長年蒐集して来た資料をもとに自費出版でこの本を書かれました。
ゆえに公文書が残っていれば多分残らなかったような、長老?の昔語りなども入っていたりします。

お尋ねがあった方の名前が思いがけなく出て来ましたのでそこのあたりをとりあえず書き出させていただきます。
項目内容としては「明治の中間期」ページ39の附近です。
語り手は昭和43年当時81才 穂積顕一郎氏

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<明治の中間期>
明治中期に入ると、前期20年間に発布公布された規定や法律が国民に理解体得される時期となって実行期に入り、国民の義務教育は年々普及して寺子屋式学校は新築されて現代教育様式となり、黒田尋常小学校は龍雲寺から現在の法吉小学校の場所へ移転新築されました。

此の頃から牛肉を食べる様になって、黒田の芹が次第に売れ初めました。(牛肉百匁375グラム、7銭から10銭。豆腐1銭。油揚げ7厘)スキヤキは時代の寵児でした。

また、洋服坊やは吉岡太八郎(天王ザワ、春日)で、後年京都の三高から渡米して農業に従事された。また終生洋服を着たことのないのが黒田の谷弥一郎老人であった。

国屋や黒田からは泥炭褐炭が発掘され、国屋は鷹匠町へ人背に負われて運ばれ薬研堀から川舟で大橋川へ、春日では法吉小学校裏や摩利支山から産出し、共に川舟で四十間堀を経て大橋川に運送され、当時宍道湖上や中海を航行する蒸気船松江(ジンゴウ)丸、米子丸、国津丸などで燃用にされた。

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お尋ねの吉岡太八郎さんは、地元ではかなりの有名人でいらっしゃった様子です。