旅記録 吉野と高野山の1

では旅の記録、吉野と高野山の本文をはじめます。まださいごまで写し終えていないので、途中になるかもしれませんがご了承ください。結構神経をつかうのですよ。肩こりもでますし。
閑話休題
如意輪寺の荒廃を嘆く寺僧と出会い、醍醐天皇陵を訪れるという件です。


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文苑

旅奇録  特別会員  なにがし
(4号 12頁〜22頁)

其一、吉野及下市

7月14日朝、多武峰を出てて、三里半の坂路を下り、上市に出て、吉野川を渡り、花に名高き吉野山に登る、午前10時吉野に着し、辰己屋といふに宿を定む、午後出てて吉水院を訪ふ、後醍醐天皇か南狩し玉ひし時の、最初の行宮なり、「花に寝てよしやよし野の吉水の枕の下に岩はしる音」の御製ありしは、此処にてなり、今猶玉座の跡を存す、社司に請ひて拝観したるに、十数畳を布きたる、稍陰鬱なる一室にして、奥に玉座を据ゑたり、当時の御有様忍はる、

院を出てて如意輪寺に至る、如意輪寺は、当時の建築の儘にして、いたく荒廃し、屋根には細長き板を縦横にうちつけて、朽ちたる木羽の風に飛はさるるを防きたれども、強き雨の日などは、堂内の本尊の像も濡れ玉ふべく思はる、柱板戸は古び朽ちて、黒みかかりたる灰色をなし、開閉も覚束なき様なり

傍に住僧の宅あり、又朱塗の奇麗なる宮殿の建築中なるを見る、住僧を音つれて、宝庫の中なる名高き如意輪堂の扉を観る、これは偽物なる由兼ねて聞き居たるに、扉の未だ甚古からす、塗れる漆のはげたる處もなくつやつやしたるなど、如何に鄭重に保存したるにもせよ、如意輪堂のいたく荒れたるに比べて、とても当時のものとは思はれす、又宝庫の中に、八田知紀の自画自賛なりといふ、吉野山の形を画きて、其下に「吉野山霞の奥は知らねども見ゆる限は桜なりけり」の歌を書したる掛物を見たり、真偽のほどは知らず、


見終りて、寺僧と対談す、僧の容色憔悴して病あるものに似たり、自らいふ、数年来溜飲を患ひ、起居意に任せす、気力に富める君等の如きを見れは、常に羨しきに堪へすと、其年を問へは、五十を過くること少計、其容貌年に比していたく衰へたり、されど、此僧、心の元気は未た衰へさる人にて、我文学を修むるを聞き、よき話相手をや得たりと思ひけむ、


盛に如意輪堂の荒廃を慨して曰く、日本の中にて、大和は歴史上最重要の地なり、その大和の中にても、吉野は殊に注目すべき地なり、同し大和にも奈良の如きはあれど、これは、太平の盛時に名を留めたるにて、甚だ歴史上の趣味を有する所にあらす、吉野はこれに異なり、吉野の名あるは、逆賊旗をあげて、天下麻の如くに乱れ、国体無比の我国に一異例を現したる南北朝の時にあり、吉野は、實にこの異例に於て、正統の天子の皇居たりしなり、この故に、吉野は我国に於て、歴史上最趣味ある地といふべし、


然るに、寺塔の荒廃此の如くなるは、風致の為に黙する能はさる所、山僧夙に心をここに注き、遊説奔走、周旋年を積むといえども、未だ世人の深く心を此点に注ぐものなく、加ふるに、我年来の病疾は、時々劇しく発作し来り、我をして専心此事に従ふ能はさらしむ、これを以て、荒廃したる如意輪堂は、益荒廃して底止する所なからむとす、痛嘆に堪へさる事なり、


然れとも、近頃郡民某某氏等相謀り、各金を醵し、後醍醐帝の祠をここに建立し、殆んと落成せるを見らるる通なるは、聊か慰むる十路ありと、我聞きて其言の一面の理あるに感じ、身体を摂生して、徐に其希望を達すべしと慰め、辞して、堂後の後醍醐帝陵に謁す、陵は石階数十を拾ひたる上、老木の茂りたる下に、北向にまします、