4号 旅記録 高野山の2

後醍醐天皇の陵に参拝していると日が暮れました。その晩は吉野に泊まり、翌朝は下市へ向かいます。ここには釣瓶鮨という名物があって食べてから有名な庭を拝見、なお進んで高野山のふもと学文路(かむこ)の玉屋という旅館に宿ります。

============

太平記に、南朝の年号、延元三年八月九日より、吉野の主上不予の事ありけるが……委細は綸言と残されて、左の御手に法華経の五巻きを持たせ玉ひ、右の御手には御剣を按して、八月十六日に丑刻に遂に崩御なりにけり……葬礼の御事兼ねて遺勅ありしかば御終焉の御形を改めす、棺椁(かく)を厚くし、御座を正うして、吉野山の麓、蔵王堂の良なる林の奥に、囲丘を高く築くきて、北向きに葬り奉る、

寂寞たる空山の裏、鳥啼日既に暮れぬ、土墳数尺の草一径、涙尽きて愁未だ尽きす、旧臣后妃泣く泣く、鼎湖の雲を瞻望(せんぼう)して、恨を天辺の月に添へ、覇陵の風に夙夜して、別を夢裏の花に慕ふ、哀なりし御事なり」とあるは此処なり
頼山陽が、杉檜参天春日黒、荒陵雑吊後醍醐と詠したるは、徳川時代の昔にして、今は花岡石の石柵にて御陵を囲み、参拝道には砂礫を敷き、修繕掃除よる行届きたり、此時吉野には見るべき所もなし、古を忍ふ心なくては、吉野は花時の外行くべき所しあらす、此夜吉野にやとる、


明くれは十五日、吉野を出て西に向ひて山を下り、十四町にして、後醍醐天皇を奉祀せる吉野宮(官弊中社なり)を拝し、又行くと十余町にして、吉野川の岸に出て、川に沿ひて西行すると一里余にして、下市に至る、下市は人口六千許あり、悄繁華なる町なり、ここにて平維盛の旧跡すしやを訪ふ、

この事跡は、竹田出雲が作義経千本桜三段目に記す所にて、平家没落の後、維盛は源氏の追捕を避けて、紀伊に逃れたりしを、このすしやの主弥助とうふもの、平家に旧恩あるものなりければ、維盛を連れ来り、かくまひて見世の者とし、おのが娘のお里といふを之に妻にせ、隠居して弥助といふ名を維盛に譲るといふ筋なり、この家代々、主は弥助、娘はお里といふ、


又このすしやの庭園は名高きものなり、そのさま、家の後なる懸崖に、折れに折れたる坂道を作り、この坂道の所々に、木を植え石を据え、水溜を作り灯籠を立てなどして、庭をしつらへたるにて、普通の広々としたる庭とも異なり、さしたる見ばえはなけれど、庭の内に、維盛の墓、お里の姿見の池などいふものあるを見、院本に仮托せる事跡を思ふ時は、流石に趣の深からさるにあらす、

庭を下りて、名物釣瓶鮓を食ふ、鮎を用いて作りたるにて、釣瓶やうの器に入れて、土産となす故、釣瓶すしといふとぞ、此日なほ西に進みて紀伊に入り、高野山の北麓なる学文路(かむこ)の旅宿玉屋に宿る、玉屋は昔石堂丸か其母千里と共に、父を尋ね来りて、宿りし處なりといふ。