4号 旅記録 吉野と高野山の4

涅槃の境に至った後、翌日17日高野山を下りて行く途で、一人の老女とすれ違います。
弘法大師さまのご利益を受けにと杖にすがりながらの巡礼、そのひたすらな信仰心に感動をする筆者。
つぎは逢坂山へと向かいます。

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我心も超然として霊界に進入し、来し方も思はす、今の身を思はす、楽を知らす、苦を知らす、心清み神凝り、経に所謂、過去心不可得、現在不可得、未来不可得の趣を得、寂然として涅槃の境に入れり


明くる十七日朝まだき、坊を辞して、元来し路をかへり、不動坂を下り、神谷に近ける時、下より一人、の老女、杖にたよりてたどり来るを見る、近くまま熟見るに、年は七十を踰えたるべく、腰はいたく曲りて、頭の垂るること腰より低く、杖もて○に其上体を支えたり、近きて、流るる汗を拭ひもあへす、

「この道を行かは、弘法様に参らるるや」と、余に問ふ様、呼吸せはしく、語ときれて、いといと苦しげなり、
余は「さなり、この道今一里程登り行かむには、大師の廟に至るべし」と答へたるに、体はさも嬉しけなる面もちにて、有難しとの言を残し、歩を早めて登り行けり、
あはれ、かく起居も心に任せさるべき、痩せさらぼひたる体を提けて、よくも二里に余る山坂を、此処まで上り来りけるよと、媼の見すぼらしき後姿を見送るともなく、我は、嬉しき様なる、又悲しき様なる、一種のいふべからざる感に撲たれぬ、


我は此時の感情をいひ顕すべき語を知らず、強めて求めば、随喜渇仰の涙に咽びたりとの語、わづかに其万分一を髣髴(ほうふつ)し得んのみ、我は、信仰の力の偉大なるに感したるなり、信仰の有難さを実地に見たるなり、信仰が人に、肉体的生活の外、永遠なる別種の生命を与ふるものなることを確認したるなり、夫れ、夏の炎天に、三里の駿坂を攀つるは、壮者も猶困難とする所、況や、年七十死に瀕したる老躯にとりては、其苦しみ、殆んと焦熱地獄の中に剣の山を登るが如くならむ、


然るに、この体のかかる苦を敢てしたるは何そや、媼は弘法大師を信するによりて、精神上に別の生命を得たればなり、今人身は四大の仮りに和合したるもの、固より永久のものにあらす、人生は五十年、よし七八十の齢を保ちたりとて、終には死する期あるなり、

其一旦息絶ゆるに及はは、体の温みは去り、残れるは、水と気と十とに帰せんのみ、然れとも、彼の媼は確信せり、一たひ、高野の山に弘法大師の廟に謁せは、仮令其体は朽ち果てて墓場の土と化し去るも、魂は大師の慈悲によりて、長へに、極楽の蓮の台に逍遥し、二世の安楽は必べしと確信せり、

則ち彼媼は、大師の力を信仰するによりて、死といふ人生の最大苦患を脱却し、別に永遠無窮なる無形の生活を認め、七十年来未曾有の大歓喜を得たるなり、炎天に登山する肉体の苦痛の如きは、此大歓喜に比して、いふに足らぬ些事なるのみ、

さればこそ、媼は起居も自由ならぬ老躯を擡けて、はるばるここまでは登り来れるなれ、蓋し、信仰はよく人生の諸の苦患を救ひ、人をして幸福なる生活を営ましむるに於て、非常なる功あるものなり、神道家が天高原を信し、仏者が阿弥陀仏を信し、耶蘇教徒か天帝を信するが如き、皆この苦多き世に感して、安心立命を得んが為にあらざるなし、


然るに何等の無痴漢そ、目に見えす、理に合はすなといふ簡単なる言辞を以て、人生に大利益を与ふる信仰を破壊し去らんとするは、此等の輩は、實に、物理化学などの実験学の片端を食ひかぢり、英米の物質主義の末弊を受け継ぎ、之を無上の道理と心得る者にして、人の精神的方向を抹殺し、人性を残賊すると少々ならざるなり